Merry Christmas!

a0034487_13285865.jpglarge
クリスマスおめでとうございます。

塩尻アイオナ教会でおこなわれたキャンドル礼拝に参加しました。


待つ―沈黙の中に流れる賛美(マタイ1:18:24)      塩尻アイオナ教会 横田幸子

クリスマスおめでとうございます。
クリスマスには、きれいなさんびかをたくさん歌って、
神の子イエス誕生の喜びをわたしたちも表わすのが、教会の伝統になっております。
今日は、晴れ晴れしい賛歌とはちがって、沈黙の中に流れる賛美についてお話しいたします。
待つ生き方と言ったほうがいいかもしれません。
クリスマス物語の中のヨセフの章です。
 
ヨセフとマリアは婚約していました。
若者の婚約は親の取り決めによってなされるのが当時の習わしでありましたが、
当事者がそれを受け入れて、愛を育てていくのも、ごく自然なことでした。
その期間中に、自分の知らないところで婚約者のマリアが妊娠していたことを
聞いた時のヨセフの胸中はどんなであったでしょう。
驚きの気持ちがやがて悲しみに、
怒りにそして心配にといった様々な感情の波に押し寄せられて、
茫然自失の状態であったと想像します。

ヨセフは「正しい人」でした。
「正しい人」とは、人様から後ろ指をさされるようなことのない人、
というイメージが一般的ですが、聖書の場合は少しちがいます。
ノアの箱舟物語のノア、ヨブ記のヨブ、クリスマス物語の最初に登場する祭司ザカリア、
これらの人たちは、みな「正しい人」であったと記されているのですが、
文脈を読んでいくと、神との関係を大切にしていた人、ということのようです。
平たく言えば、神と対話していた人です。
祈りの人、祈りの中で、神の声を聴きとることのできていた人たちのことです。
 
ヨセフは、神と対話する前に先ず、考えに考えました。
真先に浮かび上った問題は、当時のユダヤ社会を律していた律法(法律)基準です。
それによれば、姦通罪は人々の前で石打ちの刑に処せられることになっています。
それを避けるには「ひそかに離縁」するよりほかありません。
でも、その先は?
離縁したマリアが胎内の子を抱え、やがて出産した生活がどうなるのか。
ヨセフは、悶々とする日々を過す中で神に向かいました。
神からの答えは夢の中に示されます。
天使が現われて「怖れることはない。
お腹の子を抱えたマリアと結婚しなさい」というものでした。
矛盾も困難も何もかも丸抱えで、己が身にとりこめということです。
それが神のみ心なのだろうか、神に赦されることなのだろうか、
思いめぐらしている彼に、神の息が吹きかけられます。命の息です。
ヨセフが思い及ぶことも考え及ぶこともなかった命の言葉が告げられたのです。

「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は、自分の民を罪から救うからである」

さらに言葉が続きます。
七〇〇年以前から預言者たちに待ち望まれて来たみどりごの誕生なのだ、と。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル―(神は我々と共におられる)」。

ヨセフは、眠りから覚めました。
恐れも迷いも跡かたもなく去っていました。
夢の中での神との対話は、ありえないことではありません。
新約聖書には「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、
また多くのしかた(夢もそのうちの一つ)で先祖に語られたが、
この終わりの時代には、み子によって語られました」(ヘブル1:1)とありますが、
神信仰には古代から地続きの部分も残されています。
わたしも、度々経験していることです。

ヨセフは夢の中で、決断へと導かれました。
人間的なマリアへの愛エロス、ヨセフへのマリアの愛エロスが、
神の愛アガペーに支えられていることを実感したのです。
二人の愛を育むことが、神のみ心であることを知ったのです。
 
一方、マリアにも天使との出会いがあって、
婚外子を抱えることの大きな悩みから解放されます。
彼女は、喜びの叫びを発して歌います。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主である神を喜びたたえます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

少女マリアが、こんなに立派な言葉、しいたげられた女性や、
社会から排除されていた者たちを代弁するかのような言葉をつむぐことが、
ほんとに出来たのでしょうか。
多分、マリアの思いを想像しての作者の創作によるものでしょう。
あるいは、身近かな女友達や、婚約者には思いの丈をぶつけていた
マリアの言葉を素材にしているのかも知れません。
 
ヨセフは、マリアの高揚した歌のような信仰の言葉に、
深い思いをもって耳を傾けたでしょう。
そして、現実のきびしさを思いやっていたのではないでしょうか。

マタイの誕生記事は、二章のところで権力者ヘロデのおぞましい行為を記しています。
ヨセフはおぼろ気に予知していたことかも知れません。
自分たち二人に示された神の驚くべき出来事=インマヌエル(神が我々と共にいる)のしるしとして
男の子を与えられたという告白が、
権力者をおびやかすものであることを予測できたからです。
社会を規定する律法という基準に従うことではなく、
宗教権力に従うことではなく、
神のみ心に従うことを選んだ者に向けられるこの世の刃を感じとらずにはおれませんでした。
 
ヨセフの予知は図星でした。
が、もはや、ヨセフはとまどい怖れることなく主なる神の導きを求めました。
権力者ヘロデ王が、その年に生まれた男の子を皆殺しにしようと企てた時、
その魔手から逃れる道を探しました。
またもや夢の中で、エジプトへの避難の道が示され、素早く実行に移しました。
そして権力者が代替わりになった時に
ふるさとナザレの村にマリアと子どもをつれて戻ったのです。
 
ヨセフは、神を仰ぐことの中で溢れ出たマリアの賛美が真実であることをきっちりと受けとめ、
生活の場としての現実において担ったのですね。
社会からの非難の目を受けとめる生活です。
それは、どれほど厳しいものであったでしょう。
国の王や社会からの攻撃に細心の注意を払いながら全力で対応したヨセフのたたずまい、
その彼の受けとめたすべてが、ヨセフの神への賛美ではなかったでしょうか。
ヨセフなしには、マリアの賛美も後々まで残るものとならなかったかも知れません。

ヨセフの名は、誕生物語に記されている以外には、聖書の中に登場しません。
ナザレに帰って育った子どもイエスは「マリアの子」と呼ばれて蔑視にさらされました。
ふつうは父親の名「ヨセフの子」と呼ばれるのが習わしです。
ナザレの人々は、イエスが婚外子であったことを周知していたのです。
だからと言って、ヨセフがイエスの育つ場にいなかったとは言えません。
後のイエスは、父ヨセフの家業―室内家具を作る家具大工職人を、
長男として受け継いでいるのです。弟妹も四人おります。
ヨセフは黙々と家業に励み、しっかりと家族の生活を支えました。

以上がヨセフ物語のストーリーですが、いかがですか。
それぞれの局面で自分の思いに引きつけてみることができたでしょうか。
 
わたしは、ヨセフの沈黙の人生を想像する時、
ヨセフの内面における激しいまでの期待を思わずにおれません。
みどり子誕生の時に夢の中で告げられた神の言葉への信頼が、
彼の苛酷な現実を支え切るエネルギーではなかったでしょうか。
それは「待つ」ことに集約された人生の姿勢です。待つという生き方です。
ヨセフは待つことを内に秘めて子どもらを育てたのです。
ヨセフの沈黙は、そのまま、神への賛歌です。
祈りにおきかえることもできます。
ヨセフの神への信頼は賛歌であり、祈りなのでした。

このヨセフの沈黙の賛歌・祈りは、
わたしたちの人生にも重なりあって来ませんか。
たとえば、犯罪事件を起こした少年の話です。
ちょっと特異な例でもあるのですけれど、聞いて下さい。
ある未成年者が、常識をはるかに越えた犯罪事件を起こしてしまって、
世間からはもとより、裁判官からさえも「産業廃棄物以下」という言葉で裁定される事件がありました。
そのような審判を下された少年や家族に受け入れられる言葉であったでしょうか。
だから新鮮な民間人による裁判員制度を導入すべきだ、と早とちりしないで下さい。
死刑制度をもっているこの国では、
素人の判断はそこに収斂されていく仕組みを知らなくてはならないでしょう。
この子どもの両親が、我が子を「物」それも「廃棄物」として判断するほどに、
ひどいことを仕出かしたのだと認めることが出来たとしても、
判決の言葉そのものをそのまま受け取ることはできない、と思います。
子どもへの非難や怒りに一片の抗議も差しはさむ余地がないとしてもです。
裁判官の言葉の行き過ぎを思ったとしても、
それを糾すことのできない状況に耐えるよりほかないところで、
家族とりわけ父や母にとっては、子どもの命への愛を捨てることはできないでしょう。

もし、捨てることが出来るとすれば、世間的な価値基準に愛を屈服させた時です。
愛とは、もともと矛盾に満ち満ちたもの、理屈ではなかなか説明できるものではありません。
丁度、イエスの十字架における神の愛のように、です。
もし、そのようなどう仕様もない子どもへの愛を捨てることが出来ないとすれば、
それは、神の憐みが父母の愛を起し続けているからだと、わたしは思います。
ひたすら、子どもの前に在り続ける力を与えられているからだ、と言わざるを得ないのです。
そして、思うのです。その愛は「待つ」という姿勢でしか現わしえないものではないか、と。
その場合、親の心の内を想像するなら、
恐らく七転八倒の思いが駆けめぐっているとおもいます。
その思いを手記にして発表したりすれば、
あるいは世間の評価が一挙に変わるということがあるかも知れません。
が、そのような変化が、少年の本当の立ち直りにつながるかは大きな疑問です。
少年の立ち直りを祈りながら信じて待つ、
裏切りがくり返されてもなお祈りながら待ち続ける人が何人かいるとき、
その人々のことを少年が知った時、
初めて少年に立ち直ろうとする心が生じる、ということが起こりうるのではないでしょうか。
地味な作業です。時間のかかることです。
両親の存命中には実現しないかも知れません。
死を越えて待つ。待つという行為には忍耐がつきものなのです。
子育ての基本路線です。

世界情勢をめぐる場合にも同じことが言えると思います。
戦争や飢えのなくなる社会を願って、人類はどれほどの年月を待ち続けているでしょう。
声を上げたり、カンパをしたりしながら、それを裏切る高官たちのいることも知るところです。
時には、怒りをこめて政治家の欺瞞を糾弾したりすれば、
逆にその行為を非国民呼ばわりされることさえもあります。
そのような動きがすでに始まっています。

そんな状況の中で、ひっそりと沈黙したまま、大地を耕し、
身近な者への配慮に心を砕いている人たちがおります。
その人たちの姿勢が、激しさを秘めて「待つ」姿勢であるのかどうかわかりませんが、
少くとも、根張り強く、平和共生への願いをもっておられる方々だと見なければならないでしょう。
当たり前に、あるがままに生きることを求めている人々は、
有史以来存在しているのです。
誰でも(と願います)そうであるなら、平和に共生できる。
「待つ」姿勢を秘めながら生きている心ある人々がいると信じましょう。
平凡に生きている人々の中に「待つ」姿勢を見出し、つながりを得ていくことが、
今の時代、もっとも大事なことではないかと考えさせられております。

イエスは、すでにそのような試みを実践し、
「とこしえに立つ神の言葉」を残して、今もなお語り続けていてくれるのです。
「インマヌエル、わたしは、いつもあなたと共にいる」。
家畜小屋にみ子を誕生させた神のみ心は、
人々の共存を求めて苦闘している人々と共にいることのしるしなのです。


★横田幸子牧師の了解を得て転載させていただきました。
[PR]
by hitsujiya-azumino | 2008-12-26 13:33 | ひつじ屋日記 | Comments(0)